(南の森弐番街町内会HPより抜粋して転載させていただきました)
志木市の地勢
志木市は、武蔵野台地の東北端にあたり、市の中央を貫流する新河岸川を境に、北東部は荒川沖積低地(河川の堆積作用によって形成された平野)がひろがり、南西部は市街地が発達する武蔵野台地の高台となっています。そして市の西部は、台地を刻んで流れる柳瀬川の谷に沿う沖積低地です。武蔵野台地は、「古多摩川」の扇状地として形成された台地で、関東山地から流れ下る古多摩川が枝状にのび、幾筋もの支流が土砂を運びました。青梅市付近を頂点としたこの扇状地が武蔵野台地の基盤となり、その上に関東ローム層(主に富士山や箱根の火山灰)が堆積しています。柳瀬川、黒目川などは、かつての古多摩川の浸食谷の中を流れる「名残り川」です。武蔵野台地と古多摩川の浸食谷の境目を「崖線」(河岸段丘、海岸段丘などの崖地の連なり)といいます。志木ニュータウンの近くには、崖線に沿うように生協、ガストなどのある県道113号川越新座線(通称「防衛道路」)が通っています。防衛道路は、戦後朝霞の進駐軍(キャンプ・ドレイク)に物資を運ぶために整備され、昭和29年に完成しました。
氷河時代、数万年周期で氷期-間氷期が訪れて、海水面は上下に変動し、海進、海退を繰り返します。7万年前頃に最終氷期が訪れ、武蔵野台地は現在に近い形となっていきます。また、この頃東京にはナウマンゾウが生息していました。日本の先土器時代(旧石器時代)にあたる約3万5千年~1万4千年前頃には、石器などの出土からこの地域も人類の活動舞台になっていたと思われます。約1万年前頃の縄文時代前期から、気候が温暖になり海面 が上昇してくると、荒川に沿った沖積低地は川越付近まで海となり、柳瀬川では富士見橋付近まで入江が入り込んでいました。「縄文海進」といわれ、この時の海を「奥東京湾」と呼びます。新河岸川右岸や柳瀬川最下流部の台地上には、富士見市の水子貝塚を始めとして、この時代の貝塚が数多く発掘されています。やがて弥生時代になると海が退いた跡の川沿いの低地で稲作が始まり、台地の縁に集落と畑をつくり、崖線下の湧水や河川で水を得るといった暮らしが営まれていたようです。
志木ニュータウンの町名『館(たて)』は、約500年前より文書等に記されている歴史的な由緒ある地名です。「舘」は中世における武士の館を意味する語ともいわれ、現在の志木第三小学校付近に、中世後期に築城された「柏の城」と呼ばれる居館があったことが明らかになっています。少なくともこの頃には、この周辺に「舘村」が生まれていたと考えられています。また、「柏の城」以前の平安末期頃、伝説上の豪族田面長者藤原長勝(たのものちょうじゃふじわらのおさかつorながかつ)がこの地(志木第三小学校付近)に館を構え、この地域を支配していたことに由来するともいわれています。
その後「舘村」は、明治7年引又宿(江戸時代初め舘本村から分離独立)との合併により「志木宿」となるまで存続しました。1914年(大正3年)東上鉄道㈱(大正9年東武鉄道㈱と合併)の池袋~田面沢(たのもさわ 現川越市~霞ケ関間に位置)間が開通し、志木駅が設けられました。柳瀬川橋梁上り線のレンガ橋脚と橋台に当時の面影をみることができます。
志木市の歴史、柳瀬川のあらまし、志木の崖線、河童のつづら(NPO法人エコシティ志木)
参考文献:「志木市史 通史編」上(原始 古代 中世 近世)・下(近代 現代)
「志木市史 原始・古代資料編」
■柳瀬川は、狭山丘陵の狭山湖、多摩湖付近を水源として、所沢市、東村山市、清瀬市、新座市、志木市を流れて新河岸川に合流し、新河岸川は隅田川に注いでいます。全長19.6kmの一級河川で、流域面積は新河岸川の支川の中では最も大きい河川です。また柳瀬川には、東川、空堀川、北川、奈良橋川、前川の5つの支川があります。
柳瀬川は、市街化が進んだ志木市の中にあって緑の自然的空間が残された地域です。河川敷にはヨシ、オギなどが生育し、釣りやピクニックなどアウトドアを楽しむ姿が見られます。左岸の沖積低地に広がる「水谷田んぼ」(富士見市)、右岸側には土手の桜並木と武蔵野台地の境の崖線に残る斜面林など、身近な自然がたくさんあります。
右岸側の沖積低地もかつては水田でしたが、高度経済成長期の1960年代から市街地としての開発が進みました。
1962年(昭和37年)志木中学校新校庭完成
1963年(昭和38年)日本レダリー㈱(現いなげや・ビバホーム)
1964年(昭和39年)中野下住宅地の造成分譲(柏町2)(財)足立町開発公社
1967年(昭和42年)日生住宅志木団地(177区画、柏町6)
1968年(昭和43年)足立町(現志木市)立志木第二小学校開校
1970年(昭和45年)新座団地(日本住宅公団)
1971年(昭和46年)志木ニュータウンプロジェクトスタート(鹿島建設㈱)
志木市は市街のスプロール化(都市の郊外に無秩序・無計画に宅地が伸び広がっていくこと)を憂慮し、土地区画整理事業とともに、膨大な資金投下を必要とする大規模開発に大手民間デベロッパーを活用することにし、開発プランを募集しました。これに鹿島建設、太平洋興発、東急不動産、三井不動産、フジタ工業の5社が応募し、鹿島案が採用されました。
志木ニュータウン
開発総面積 354,656m2。東京ドーム 7.6個分。昭和46年にスタートしたわが国でも屈指の大プロジェクト(当時県下最大の規模)で、17年の歳月のうちに育み培われ、総戸数3,201戸*、計画人口11,000人のビッグコミュニティが誕生しました。
*7街区(南2、中央3、東2)のほか県営住宅40、日本水産社宅(当初)40、医療施設棟8、住区外分譲宅地9(南壱南側)を含む。
鹿島建設㈱としては初の大規模住宅団地の開発で、プロジェクトはマンション建設だけに留まらず、エリア内のぺあも~る、鹿島ビルなどの商業施設や、志木体育館、テニスコート、また周辺道路、志木大橋、河川改修、柳瀬川新駅などの土木工事も含めたものでした。大規模開発、一団地認定のメリットを生かして、公共施設、商業施設がバランスよく配置され、自然環境を生かした緑豊かなゆとりある街並となっています。プロジェクト終了後、新たにガーデンプラザが完成しました。
・沿革
1971年(昭和46年)4月志木市と鹿島建設㈱が基本協定書締結
1973年(昭和48年)志木市立志木第二中学校開校
1975年(昭和50年)志木大橋完成
1977年(昭和52年)9月開発許可
1979年(昭和54年)町名が『館』に、南の森壱番街一部完成、8月入居始まる。11月柳瀬川新駅
1980年(昭和55年)志木市立志木第四小学校開校。志木市民体育館、南の森壱番街の全て、南の森弐番街完成
1981年(昭和56年)中央の森弐番街の一部、東の森壱番街、県営住宅、商業施設「ぺあも~る」完成
1982年(昭和57年)東の森弐番街の一部、中央の森参番街の一部、医療施設棟完成。幸福の森幼稚園、館近隣公園(中央公園)
1983年(昭和58年)中央の森参番街の全て、市立館保育園、鹿島ビル(住友銀行、東武ストア、NASなど)完成
1984年(昭和59年)中央の森弐番街が全て完成
1985年(昭和60年)東の森弐番街が全て完成
1987年(昭和62年)日本水産社宅(現リプライム志木)完成
1988年(昭和63年)中央の森壱番街完成。この年をもって当初計画した施設の建設が全て終了
1992年(平成 4年)市立柳瀬川図書館開館
1993年(平成 5年)志木市役所柳瀬川駅前出張所開設
1994年(平成 6年)ペアクレセントビル完成。柳瀬川駅前郵便局開局
1996年(平成 8年)ガーデンプラザ壱番館、弐番館完成
1997年(平成 9年)ガーデンプラザ参番館完成
・志木ニュータウンの構成
街区 | 住所 | 建物 | 総個数 | |
南の森 | 壱番街 | 館1丁目6 | 1~15号棟 | 588 |
弐番街 | 館2丁目1 | 1~9号棟 | 378 | |
中央の森 | 壱番街 | 館2丁目8 | 1~8号棟 | 280 |
弐番街 | 館2丁目3 | 1~7号棟 | 476 | |
参番街 | 館2丁目4 | 1~8号棟 | 548 | |
東の森 | 壱番街 | 館1丁目1 | 1~11号棟 | 480 |
弐番街 | 館2丁目6 | 1~9号棟 | 354 | |
ガーデンプラザ | 館2丁目3 | 壱・弐・参番館 | 156 |